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庵治の特徴的な岩石は 庵治石として全国的にも知名度の高い、細目(こまめ)に代表される花崗岩ですが、五剣山にはその上に安山岩質の凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)が堆積しています。
今の形になったプロセスを時の流れと共に見て行きますと、
①白亜紀後期(約8000~9000万年前)に、基盤の領家変性岩類に花崗岩質マグマが貫入し、地表近くで固まったり、火山として噴火。その後の長い年月の間に徐々に風化を受ける。
②中期中新世(約1200~1400万年前)には、当時は水面下であったこの地域で、火山活動が活発になり、安山岩質の溶岩や火山灰が噴出し、水中に堆積。
③その後に隆起し、地表に出た部分は風化を受け浸食が進むが、安山岩質の浸食されにくい部分は残り、現在の景観を呈する様になる。
ちなみに、安山岩の「安山」とは「アンデスの山」の意味で、プレートが沈み込む辺りによく出て来る岩石です。なお、今の位置で標高が上がったり下がったりしたのではないようです。日本列島の表層は、地震の原因で知られるプレートの動きにより、はるか南の海から運ばれ、古生代から中生代にかけてユーラシア大陸の淵に押しつけられたり、また②の頃には大陸から引き裂かれて、間に低い土地(現在の日本海の元)が出来たりするなど、一連の変遷を経て現在の位置になっています。また、海面の高さも上下を繰り返しています。
子どもの頃から毎日のように仰ぎ見る五剣山。その姿は半世紀前と同じに見えます。しかし、地球の一生という悠久の時間の下では大きく変化していて、改めて自然のダイナミズムに喫驚させられます。
さて、話を元に戻します。平坦な舗装道に出て、ほんの少し進むと、左側に石像が見えます。これは女体さんと言われ、古来、地域の方々が雨乞いをしたものです。石材採掘の関係から、最近になり現在の場所へ引っ越しをされました。庵治石の採掘は、五剣山の北西に位置する女体山(260m)が中心。普段は採掘現場(丁場)には入れませんが、そのスケールは一見の価値があります。イベントなどで見学の機会があれば利用されることをお勧めします。
さらに、道の右側を注意して見ていると、四国88カ所の第85番札所である八栗寺への道標があります。そこから10分も歩けば、本堂の上にある中将坊さんへたどり着きます。町内の昭和24年度生まれの方々が中心になって管理をされているので、山道としてはとても歩きやすくなっています。
女体さんから続く高尻峠までの道は、まさに天空の回廊の趣き。眼下には庵治の街並み。北方の島々の向こうには本州の山々が、さらに高尻峠に近付けば東方に大串半島から播磨灘が一望できます。
途中に、「だんべら遺跡」の案内板があります。中部瀬戸内と畿内で散見される、弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元2世紀頃)の高地性集落の跡です。近くでは牟礼町の源氏が峰でも同様の遺跡が確認されています。弥生時代の集落遺跡としては、平地で周囲に濠をめぐらして外敵の侵入を防ぐ環濠集落が一般的です。およそ耕作には不向きと思われる丘陵地に集落が形成された理由としては、当時の政治的紛争に備えるものという説や地域の拠点となる集落説など諸説があります。紀元1世紀頃は寒冷な気候が続き、飢饉に見舞われたという話もあり、食糧を安全に保管する目的も考えられます。
さて、高尻峠から北へ入り、旧ゴミ処理場との分岐を左へ行くと白粉峠に至ります。白粉の正体は白色の凝灰岩。火山灰が固まったものです。かつては磨き粉として使われました。ここから竜王山の西側を回り、さらに笹尾方面との分岐を右に進むと、竜王山公園へ至ります。
五剣山の峰の直下から稜線付近を北上するこの一連の道は車でも楽に廻れます。ダンプカーの通らない日曜・祝日にゆっくりと楽しまれてはいかがでしょうか。